20170102
11時に起きた。
スマホのメモに打ってた小論文を原稿用紙にガリガリ書いた。
英語やらなきゃと思ってディクテーション始めた。出来ない。聞き取れない。
4時くらい、家族で初詣に行った。
28日に部活が終わってから外出してなくて、久しぶりに外に出た。寒いなあ。
神社にはまばらに人がいて、みんな穏やかな午後を過ごしているという感じだった。
階段をのぼる。しんどい。頑張ってのぼろうと思って必要以上に足を踏みならしてしまう。ショートブーツが地面にぶつかる、パンって音が妙に大きくて、自分で驚いて静かにのぼる。
お賽銭箱の前で順番待ちしていると、巫女さん?がお賽銭箱の蓋を開けて、お賽銭を取り出す光景に出会えた。この光景なかなか見れないのでは?と思って興味津々に見ていたら、次第にばつが悪くなってきて目をそらした。
自分の番が来る、10円玉のお賽銭を入れる。チャリン。
だがしかしこの先の作法、どうしたらいいかわからなくて、とりあえずカランカランと鳴らして手を合わせる。あれ、パンパンって手を叩くべきだったんだっけ。これじゃお墓まいりじゃないの?目を閉じて、「あーとりま去年一年ありがとうございました楽しかったです今年もどうぞよろしくおねがいします」とだけ頭の中で唱えて目を開けた。
神様はいないと思ってる。仏様も。じゃあわたしは何に祈ったんだろう。何に対して、ありがとう、よろしく、なんて言ったんだろう。心のどっかで、神様の存在を認めてるのだろうか。よくわからなくなった。
神仏習合主義、だったっけ。そういう有耶無耶な感覚で大半の日本人は生きているのか、と思うとちょっとだけ日本人が愛おしく思えてくる。適当すぎだろ笑
おみくじを引いたら中吉だった。
落ち着け、って書いてあるね
うん。落ち着いた生活をおくります。
おみくじとか、血液型占いとか、星座占いとか、ほとんど信じてない。てかなんの根拠があって信じられるんだって逆に不思議。人間、なにかを信じて生きていきたいものなのか。すこし先の未来を示してくれる存在のことを、人は信じて、結局信じたことをわすれてる。
怠くなってきたので終わる。食べ過ぎた1日でした。食欲がおさまりません。昼夜逆転の日々が続きます。
20171230
・年末年始やクリスマスに思い入れなんてこれっぽっちもないから、接客業のバイトになって、ずっと働いていたい。幸せになってくれる人がいるんでしょうね。
・結局、勉強がいちばんの安定剤だ それに、なんだっけ忘れた
・今日の朝ごはんはイチゴジャムのトーストとお湯で薄めたココア。昼ごはんは忘れた。夜ご飯は、白ご飯とネギ入れた味噌汁、カツ、ちくわインチーズ、キャベツ
たべたご飯忘れるのって普通かな
・勉強しないことの何がいちばんこわいって、4組にいられなくなること。4組がいちばん安心して生きられるから。みんなちゃんと大人で、優しい。勉強熱心。4組以外では生きていけないんじゃないか。そもそも勉強しないなら東高に通う意味はないが。
こういう気分
一日外に出ず友達に会わなかっただけでしんどくなる
寝たら忘れる
20171229
20171227から勉強をやめて3日目
随分と心地いい
今までは「頭悪いから勉強やらなきゃ」→「でも勉強に手がつかない」→「勉強できないわたしクズだ」→「消えたいしんどい」のループにはまってしまっていたから、自分が勉強できないことに対する負の感情は消えた。
勉強やめてなにをしてたかというと、最近はまって本当にドンピシャ好みのPSYCHO-PASSを見て、カラオケに行って、鳥西の自主公演に行った。
自主公演は内容自体は面白いとは言えなかったけど、バスで迷い、汽車にギリギリで飛び乗って、会いたい人に会えて、外に出れて、駅前で唐揚げ食べて、シャミネで買い物して…って楽しいことできたから良かった。
PSYCHO-PASSはしんどい。性癖すぎる。
キャラクターが魅力的。哲学的な内容にどっぷり浸かる心地よさ。ドミネーターほしい。
面談で先生に「なんで勉強してるか、わからんくなってきた」って相談したのが1225、クリスマスだった。
先生曰く、勉強するのは将来の幅を広げるためだ、と。いろんな人との出会いを経験することで人として成長できる。知らないことを知れる環境に身を置ける。勉強せず、視野の狭い世界で暮らしても構わないが、もったいないことなんだ。たった3年間勉強するだけで、人生は豊かになる、んだって。
前は自分もこんなこと言ってたなあ。
先生自身も、なんで勉強してるんだろうって思った経験はあるらしくて、大抵何か辛いことがあった時なんかはそんな感情に悩まされた。と。
「なんで生きてるか」って話題にも発展した。どうせ100年たったらみんな死んでるじゃん、ならどうしてみんな生きてるの?ってかんがえたときに、先生は、生きるために生きてるんだ、って言ってた。生きるのにとくに目的はないし、仕事してても生きててもなんで生きてんだ、って思うことはやっぱりあるんだけど、生きるために生きてるんだと考えるらしい。へえ。
文章が曖昧なのは、先生とのこの会話を目に涙を溜めながら聞いていたから。
先生に、話をきいてほしくて わたしが思ってること、考えてること、話せばなにか解決してくれると思ってて、話した。そしたらめちゃくちゃ返してくれて、いやありがたいとかいうレベルを超えちゃってるよそれ。親身になるってこういうことなんだなあと実感。うう、、わたしは人に優しくされたら涙が出てくるんじゃ。とくに面談。面談はわたしの涙腺崩壊マシーンだよね。
対処法として、年が開けるまでは勉強せず、ゆっくり過ごしてみて、と。好きなテレビみて、友達と遊んで、年末年始を楽しんでください。って言われた。一人でいるんじゃなく出来るだけ誰かと。友達や家族と一緒にいてください。そうやって過ごしているうちに、答えは出るんじゃないかな。自分が本当に勉強したいのか、勉強やめてる間に焦りとか、「勉強しないとまずい、やばい」って感情が生まれたらそれはわたしが心のどこかで勉強したいと思ってる証拠だし。勉強する動機も見つかるかもしれない。
だから一回勉強をやめてみて、自分と向き合ってみてください。ここまで頑張ってたし、疲れすぎちゃった部分もあるかもしれない。
へえーん
わたしは、じぶんのこと、頑張ってた、なんて思ったことないけど、おそらくがんばれてないし、頑張ろうともしてなかった可能性大。
自己肯定感が低いのかなあ〜はは〜
で、勉強やめてみて思ったこと。
すげえ楽チンじゃん〜最高〜
好きな時間に起きて好きなアニメを見て好きなように生きる。最高じゃん、これがずっと続けばいいのに。
「勉強やらなきゃ、やばい、、焦」という感情は今現在生まれてはいない。本当はわたしは、勉強したくないと思ってるってことだろうか。いままで勉強してこれたのは、周りの人らが頑張ってるから自分もやらなきゃというある種脅迫的な感情とか、成績を上げたいからって気持ちがあった。
勉強する意味がわからないというより、勉強したいと思ってない、のかもしれないなあ。、って思ってたらもう救いないじゃんね、笑
東高にいる意味はない。どっか別の、総産とかの卒業後即仕事!みたいな学校のほうが向いてるんじゃないかお金欲しいし。
だからわたしは介護職にちょっと傾きつつあったんだ。大学行く意味ないなら、少しでも社会に貢献できる仕事につけばいいんじゃないか、って思ったんだった。
うーん考えてるけどわかんない。
今日はおそらくADHDの人々のツイッターを眺めてた。勉強してた、すごい勉強してた。自分の好きなことを、とことんやってた。哲学や心理の勉強してる人がいた。こういう分野ちょっと好きかもしれない。
その人たちの書く文章が好きだ。綺麗にまとまっていて、綺麗な形をしてるんだけど、ふれると痛い。見えない棘が生えてる。痛い。けど触れたい触りたい。そんな文章。書けるようになりたいな。彼らみたいに生きたい。
手がかりになりそうなツイート載せとく
おわり